GAME de B-DASH

ゲームが特別うまい訳でもないけれど、ちょっぴり古いゲームから最新のゲームまでゲームと名がつく物が好きな人のブログ。

3DO

3DO

一般的に3DOというと松下電器産業(パナソニック)が1994年3月10日に発売した『3DO REAL』というマシンの事を指すと思いますが、正確にはアメリカの3DO社が提唱したマルチメディア機器の規格の名前です。
3DO REALの他にも三洋電機の『3DO TRY』など発売されています。
提唱した3DO社自体はマシンを発売することはなく、その規格に賛同したメーカーがマシンを発売し、そのロイヤリティを3DO社が受けとる仕組み。
その中で松下電器産業はいち早くマシンを開発した。
それまでのゲーム機では無理だった1677万色のフルカラー表示や、ポリゴンを扱えるマシンだが、あくまでもゲーム機ではなくインタラクティブ・マルチメディアマシンとして発表。その為価格は79800円と高額家電を意識したものになった。
結局発売時にはセガサターンの44800円や、プレイステーションの39800円に影響され、54800円と値下げされたが、それでも割高感は拭えなかった。
販売経路も一般的な玩具屋や、ゲームショップではなく、ナショナル・パナソニックの専門店か、一部の家電量販店で入手するといった具合だった。
1994年と言えば次世代ゲーム機が多く登場した年ですが、3DO REALはその先陣を切る形で発売されました。
注目タイトルはスーパーファミコンとの映像の違いを見せつけた『ウルトラマンパワード』、格闘(?)バイクゲームの名作『ロードラッシュ』、3Dシューティングの『トータルエクリプス』あたりが有名で、それなりに個性派タイトルが揃っていたと思います。

 私もパナソニックショールームでトータルエクリプスの試遊をした事があります。美しいグラフィックには次世代機の未来を感じましたが、個人的にはコントローラーの操作がイマイチしっくり来なかったという感想もその時抱きました。
3DOはソフトウェアのロイヤリティも他より破格で、サードパーティにとって参入しやすい環境だったと言われています。しかし発売されるソフトは良く分からない洋ゲーも多く、日本人にとって馴染みがないものが多かったのも人気が出なかった要因かもしれません。ただ、今になって考えてみるとサターンや、プレイステーションに移植されたソフト以外のマニアックなソフトは3DOでしか遊べない物が多く、貴重だなとは思います。
そんな3DOですが、次世代機の中では大穴的立場ではあったのですが、サターンやプレイステーションが発売されるとやはり劣勢になりました。そこで目玉タイトルとして『スーパーストリートファイターII X』を発売します。これを期にソフトラインナップが普通のゲーム機っぽくなります。本体も価格を44800円に値下げした廉価版の『3DOリアルII』にするなど、当初のマルチメディアマシンという思想ではなくゲーム機としての方向に舵を切りだします。

 インタラクティブシネマという新ジャンルを産み出した『Dの食卓』、パソコンから移植の名作アドベンチャーポリスノーツ』など発売され注目されますが、サターンやプレイステーションの人気に押され、1996年には販売停止しました。
しかし松下電器産業はまだ諦めてはいなかったのです。
3DOが失敗した要因は本体価格の高さでもあった。これは本体にも3DO社にロイヤリティの支払い義務がある為、他社のゲーム機の様に本体は赤字覚悟で販売し、ソフトフェアの売上で回収するといった販売形態が取れないでいたのだ。そこで松下電器産業3DO社を買収。同時に3DOの次世代の規格であるM2も手にいれる。
パナソニック・ワンダー・エンターテイメント社という新会社まで設立する力の入れようだった。その額トータル100億円!
3DO M2』のキラータイトルはずばり『Dの食卓2』で、64bitのCD-ROMマシンは発売直前まで漕ぎ着ける。しかしサードパーティが集まらず、結局発売される事はありませんでした。
M2は組込み型基板や、アーケード基板として世に出ましたが、100億円の一割も回収出来ていないだろうと予想されます。
その後も何度かパナソニックとしてゲーム業界参入の噂は上がってきます。MSXではソニーのライバルとして最後まで新機種を発売し続けたパナソニック

また勇姿を見せてほしいですね。

PCエンジン

PCエンジン

 NECホームエレクトロニクス(以下NEC-HE)が1987年10月30日に発売したゲーム機。(定価24800円)
打倒ファミコンという時期に登場し、性能では全ての面において凌駕していた。
CPUは8bitだが高速なものを積んでいる。中でもグラフィックチップは16bit処理も出来る優れもの。
開発にはハドソンが大きく関わっており、それと新しくゲーム機を出したかったNECとの意見が合致した。
ファミコンとの共存を目標に掲げており、ハドソンはファミコンにも相変わらずソフトを供給していた。その為任天堂との関係が悪くなる事は特に無かったようだ。
私は発売当初店頭デモでPCエンジンの『R-TYPE I』、『加トちゃんケンちゃん』、『THE功夫』を見て驚いた。
当時はドラゴンクエスト3の発売まで3ヶ月を切っていて、ファミコンにドップリ浸かっていたファミコンユーザーだったが、PCエンジンR-TYPE Iで滑らかに動く多間接キャラの存在感や、本人そっくりな加トちゃんケンちゃん、大きなキャラが動いているTHE功夫は凄いし、ファミコンには無理だなと子供ながらに思った。
ゲームソフトの媒体はHuカードと呼ばれるカード型(セガマーク3のマイカードとほぼ同じ)を採用しており、薄くてスマートなのに凄いのだ。
PCエンジンは『コア構想』という考え方が中心になっている。これはPCエンジン本体を中心(コア)に様々な周辺機器を発売し、色々な事が出来るようにしようという構想で、その為拡張ポートを標準装備していた。
コア構想で最も成功したのがインターフェースユニット(いわゆるCD-ROM)だが、他にも、天の声(バックアップ)、ペイントツール、プリンター、スキャナー、BOSEスピーカー等がある。
本体も様々なバリエーションがあり、初代の白PCエンジンの他に、Huカードのみ対応させ拡張ポートを省いた廉価版のシャトル(18800円)
RF接続からビデオ端子に変更したコアグラフィックス(24800円)
ビデオチップを2個搭載し、グラフィック性能を2倍に強化した専用ゲームも楽しめるスーパーグラフィックス(39800円)

 Huカードのゲームを携帯出来るGT(44800円)
コアグラフィックスの廉価版のコアグラフィックスII(19800円)
スーパーCD-ROM2とバックアップ機能を含め一体型としたDuo(59800円)

 コアグラフィックスIIに4インチのTFT液晶を搭載したLT(99800円)
Duoの廉価版のDuo-R(39800円)

Duo-Rの価格を更に下げ、6ボタンパッドを標準としたDuo-RX(29800円)
レーザーアクティブにPCエンジンを遊べるようにし、更に専用ソフトまでも遊べるLD-ROM2パック(39000円)が存在する。
 他にもCD-ROM2スーパーCD-ROM2に対応させるスーパーシステムカードや、それより上位のアーケードカードも存在する。
…とまあ非常に種類が多いので、初心者には訳がわからないのではないだろうか。
LD-ROM2以外の全てのPCエンジンソフトを遊びたければ、スーパーグラフィックスにスーパーCD-ROM2を接続させてアーケードカードを使用する構成だ。
ただ、スーパーグラフィックス専用ソフトは5本と非常に少ないし、アーケードカードも専用ソフトは12本と多くはない。しかしソフトの出来は当時では良く、中でもスーパーグラフィックスの『大魔界村』、アーケードカードの『餓狼伝説スペシャル』などはPCエンジンを持っていて良かったと思える高い完成度を誇っていた。
PCエンジンは世界初のCD-ROMによるゲーム供給を実現したゲーム機で、世間ではファミコンが全盛期だった頃にキャラクターが喋ったり、音楽にCD-DAを流したり、とにかく凄いインパクトがあった。CD-ROM2の代表的なソフトは『イースI・II』だろう。イースIとイースIIの2タイトルを1枚のCDに収録していた。これにはCD-ROMの大容量を実感した。
Huカードに目を向けてみるとマルチタップを使用することで最大5人まで遊べるPCエンジンの特徴を活かした『ボンバーマン』や、『ダンジョンエクスプローラ』、『モトローダー』、『スーパー桃太郎電鉄II』など対戦が熱いソフトを筆頭に、あのゼルダの伝説にそっくりな『ニュートピア』、ナスカの地上絵もバッチリ再現した『ゼビウス』、四天王も使用できる『ストリートファイターIIダッシュ』など粒ぞろい。
スーパーCD-ROM2になると更にバリエーションが増え、名作AVGを完結させた『スナッチャー』、大作RPG天外魔境II卍MARU』、人気アニメを題材とし、選択肢を極力少なくしたデジタルコミックという新ジャンル『うる星やつら』、『不思議の海のナディア』、『YAWARA!』、恋愛シミュレーションの金字塔『ときめきメモリアル』、パソコンからの移植では『ロードス島戦記』、『ドラゴンスレイヤー英雄伝説』、『エメラルドドラゴン』、『ウィザードリィ』など名作多数。
更にアーケードカードを使用するとネオジオの人気作品だった『餓狼伝説スペシャル』、『龍虎の拳』、『ワールドヒーローズ2』などが遊べ、ユーザーから人気を得る。
そんなPCエンジン市場であったが、時代の波はやってくる。
そう、各社から次世代が発表され始めたのだ。
PCエンジンも次世代機『PC-FX』にバトンを渡そうとするのだが、これはまた次の機会に…

 

PCエンジンは日本で750万台。アメリカで250万台の売上台数。日本ではファミコンの次に売れたゲーム機でセガメガドライブより僅かに売れた。ただ世界で見るとメガドライブの圧勝でした。

ライバルと闘い続けたセガのゲーム機たち 〜その4〜

ドリームキャスト

 1998年11月27日発売。(価格29800円)
サターンでは序盤はプレイステーションと互角に闘い、後半は価格競争に悩まされた。
性能で言えば3D性能が若干弱かったのと、バックアップROMカートリッジが不安定過ぎたという欠点があった。
ドリームキャストでは内部構造をパソコンに近づけた。それによりソフトを作りやすくした。3D性能を上げたのはもちろん、アーケード基盤の『NAOMI』と互換性がある。サターンではアーケードからの移植にも苦労した。ドリームキャストではその反省からアーケードのゲームを遜色なく簡単に持ってくることを可能にした。セーブにはビジュアルメモリーを使う。使用メディアはあまり聞かないGD-ROMという方式で、今までのCD-ROMよりも大容量(1GB)で、コピー問題にも対応出来るようにした。

 本体の色は白で、スマートなデザイン。ライトユーザー獲得も意識した感じ。
今度の相手はプレイステーション2だ。セガお得意の先行逃げ切りで覇権を奪いたいところ。
注目タイトルは『バーチャファイター3tb』だ。

 グラフィックの質は大幅に向上し、家庭用ゲーム機の世代が変わったことを証明してみせた。
しかしセガはやらかしてしまう。初回受注分を完売したは良いが、一部の部品が足りずに中々増産出来なかったのだ。これでは先行して発売している意味がない。
セガがモタモタしている間ユーザーの関心は次第にプレイステーション2へシフトしていく。
それというのもソニーが行ったプレイステーション2の発表会で段違いの性能をユーザーに印象付けたからだ。それほどソニーのプロモーションの仕方は上手かった。
しかもプレイステーション2なら話題のDVDも再生できるし、当時としては値段もDVDプレイヤーとして考えても最安値だった。
ドリームキャストは在庫切れどころか一気に大量の在庫を抱える事態になってしまう。
それでもセガはソフト資産で何とかドリームキャストを盛り返そうと奮闘する。
シーマン』、『ルーマニア#203』など個性的なゲームをリリースする。
特にシーマンは多くの賞を受賞するほど話題になり、一時期ドリームキャストの売上に大きく貢献した。

 他にも本体に電話回線に繋げるポートが標準装備されており、それを使ったオンラインRPG、『ファンタシースターオンライン』がヒット。ユーザーはオンラインプレイに夢中になった。
当時はブロードバンドなど一般家庭には普及していない時代。夜11時からアナログ回線使い放題の『テレホーダイ』を皆契約したのだ。
それと比較的簡単にインターネットに繋がるのが特徴だったため初インターネットがドリームキャストだったという人も多い。
サクラ大戦3』『スペースチャンネル5』『クレイジータクシー』『ジェットセットラジオ』『シェンムー』など名作は多数存在する。しかしプレイステーション2の勢いはゲーム史において前代未聞な程売れ続けた。
そしてセガは2001年1月31日にドリームキャストの製造中止。今後はゲーム機の製造をしないことを発表した。それはセガのハード事業からの撤退を意味していた。

 

こうしてセガの長い闘いは幕を閉じた。
セガのゲーム機は一度も一番にはなれなかった。序盤ではファミコンに惨敗し、メガドライブではスーパーファミコンの影を追う存在で、サターンでやっとチャンスが巡ってきたと思えばプレイステーションの台頭で闘いに破れ、ドリームキャストではプレイステーション2の足元にも及ばなかった。
しかし、セガのゲーム機を愛する人々が居るのも事実なのだ。
思い返せばセガのゲーム機は常に最先端だったではないだろうか?
セガマーク3ではゲームメディアにマイカードというカード型を採用したりFM音源を発売した。メガドライブは言わずと知れた世界初の16bit家庭用ゲーム機だし、サターンはアーケードゲームの興奮を家庭に持ってきて我々を楽しませてくれた。ドリームキャストは映像美とオンラインの楽しさを提供してくれた。
セガのゲーム機はあの頃の楽しさが詰まっている!

ライバルと闘い続けたセガのゲーム機たち 〜その3〜

セガ・サターン』 

1994年11月22日に発売した。(定価44800円)
メガドライブ任天堂スーパーファミコン相手にかなり善戦したセガ
勢いそのままにサターンでも覇権争いをするべく他社よりも早く発売して今度も先行逃げ切り戦法をとる。
ビクターからは『V・サターン』(オープン価格)、日立からはビデオCDも再生可能な高級機『HI・サターン』(定価64800円)も発売。
CPUに日立製の32bitのSH2を2基搭載。セガ曰く、64bit級の処理能力なのだ。
アーケードではセガ自ら開発した3Dゲーム、『バーチャファイター』、『デイトナUSA』や、ナムコの『リッジレーサー』が話題だが、まだ家庭用ゲーム機には早いだろうと考えた。
だからサターンは最強の2Dゲーム機として開発された。まあ3Dもやろうと思えば出来ますよといった性能だった。
一方、新参者ソニーの『プレイステーション』(1994年12月3日発売。定価39800円)はナムコと手を組んで3Dに特化した性能だった。

プレイステーション…確かに新参者としては完成度が高そうなゲーム機だ。しかしセガが負けるわけにはいかない。いくら相手が超一流企業であろうとゲーム業界で長年やってきたプライドというものがあるのだ。
プレイステーションは注目タイトルとして『リッジレーサー』と『闘神伝』を持ってきた。

ナムコが誇る3Dレースゲームと新規タイトルの3D格闘ゲームだ。
ならばと、サターンは『バーチャファイター』と『デイトナUSA』をぶつけて応戦した。

そうなのだ、家庭用ゲーム機に3Dは早いと考えていたセガは初っぱなから3Dの闘いに巻き込まれてしまったのだった。
3Dだけで比べられると正直サターンは厳しい。しかし当時のセガはアーケードの人気作を多く抱えていた。それらをサターンに続々移植したのだ。中でも『バーチャファイター2』は驚きの移植度だった。

サターンとプレイステーションと同タイトルが発売されることもあった。その場合大抵は2Dゲームならサターン版、3Dゲームならプレイステーション版を選べば幸せになれた。
メーカーもユーザーも分かっていたようで、サターンには2Dの格闘ゲームや、シューティングが多く発売されていた印象がある。

そんなこともあり、ある時期まではサターンとプレイステーションはほぼ互角の勝負を繰り広げていた。
…そう、ファイナルファンタジー7プレイステーションに発売されると発表されるまでは。
この発表と同時にプレイステーションの人気は一気に加速。ソニーの斬新な販売戦略もあって、ライトユーザーはプレイステーションを選んでいった。
しかしゲームが好きなユーザーはサターンを支持する人も多かった。
任天堂ニンテンドー64を発売したぐらいの頃、ようやくサターンのツインCPUを効率的に活用できるようになってきた。半透明表現が出来ない、複雑な3D表現が苦手などのハンデもあるが、数々の名作ソフトも誕生している。

プレイステーションとの激しい価格競争にも対抗したが、サターンはツインCPU など複雑な構造のためコストカットが難しく、本体を売ったら逆に赤字というところまでいってしまった。
最終的には2万円となる。
結局サターンは全世界で926万台の売上台数で、日本だけで560万台売れている。
アメリカで売れなかった理由として、メガドライブ(ジェネシス)が好調過ぎたから。
他にもメガドライブの『スーパー32X』というパワーアップブースターを発売したのにサターンを発売したのでユーザーから不評を買ってしまった。
日本ではプレイステーションの次に売れたゲーム機という印象ですが、全世界で見ると売れなかったゲーム機なのだそうです。

ライバルと闘い続けたセガのゲーム機たち 〜その2〜

 1988年10月29日に発売したゲーム機。
CPUはメインが16bitのモトローラ社68000、サブにザイログ社Z80Aを使用。2つとも実績があるCPUなので世間の期待は大きかった。
日本では他社に先駆けて家庭用ゲーム機に16bitCPUを搭載したことから、その本体には『16bit』の刻印が金色に輝いてとっても誇らしげ。
そして16bitCPUを使用しておきながら価格は21000円という比較的安価だったのも良かった。
コントローラーも曲線を多用したデザインで手に馴染む形状であるなど、工夫を凝らした。
他にもサードパーティを揃えたことも大きい。
性能は処理速度、グラフィック、音源とどれをとっても完全にファミコンを凌駕しており、既に世代が違う。
メガドライブのライバルと言えばスーパーファミコンPCエンジンということになる。
メガドライブの発売当時は任天堂ファミコンの次世代機の、『スーパーファミコン』を発表していたがまだ発売はされていなかった。
セガメガドライブスーパーファミコンよりも先に発売し、今度は先行逃げ切りで勝とうと考えた。
本体の製造は順調に進み無事発売に漕ぎ着けた。しかしソフトが中々揃わなかった。その理由としては16bitCPUである68000用のプログラムを組むのに慣れていなかったから。
本体と同時に発売したソフトは2本。『スペースハリアーⅡ』と『スーパーサンダーブレード』だ。セガらしい何と通好みのタイトルだろう。ジャンルも偏っており2本共シューティングゲームだ。人気アーケード作品の移植とやはりアーケードで人気だった作品の家庭用オリジナルの続編だ。
1か月後の11月27日に『獣王記』を発売。こちらもアーケードからの移植のアクションゲーム。
このようにアーケードからの移植を得意としたソフト展開はセガらしい。実にマニア受けしそうなソフト達ではないか。
クリスマスの12月24日には『おそ松くん はちゃめちゃ劇場』を発売するという暴挙に出るのもセガらしい。こちらはゲーム内容もはちゃめちゃだったが…
その後もソフト数を増やし続け、名作ソフトを数々排出。セガで一番売れたゲーム機となった。
さて、スーパーファミコンとの闘いの結果だが、ここでもセガ任天堂に敗れてしまう。スーパーファミコンは発売前から告知活動が盛んで、ユーザーから買い控えをされてしまったのも影響したのだ。発売されていないゲーム機程最強の物はない。実際スーパーファミコンが発売されるとやはり苦戦を強いられる事となった。
そこでセガは考えた。『任天堂が売れるのはマリオのお陰だ。うちもマリオのような人気キャラが居れば…』
その結果登場したソフトが『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』だった。圧倒的スピードなクールな奴。それがソニックというキャラクターだ。

 このキャラクター戦略は見事にハマり、メガドライブは再び勢いを取り戻した。
特に大きな市場であったアメリカで好調で、スーパーファミコンより売れた時期もある。
さらに1991年12月12日に『メガCD』を発売。(価格は49800円)

 これはメガドライブに装着するとCDのゲームが遊べる周辺機器で、ROMカセットと比べると大容量になるだけではなく、本体の性能もパワーアップする。
スーパーファミコンお家芸である拡大・縮小・回転機能も可能となる。CPUもメガドライブ本体よりも高速な物を積んでおり、そのCPUを並列処理させることも可能というデュアルコアを実現した。
このメガCD発売の背景には日本では強力なライバルだったPCエンジンCD-ROMシステムに対抗するため。それとやはりスーパーファミコンが絡んでいた。
当時スーパーファミコンにCDロムを付ける計画があったのだ。結局実現はしなかったのだが…

一方、セガは32bitブースターの『スーパー32X』を1994年12月3日に発売(定価16800円)してメガドライブのパワーアップまで実現してしまう。
セガの開発意欲には本当に頭が下がる思いだ。
これを付けると32bitCPUによる高度なゲームが遊べる。
メガドライブの全てのオプションを取り付けた姿は高さが約30cmにもなり、圧倒的存在感と威圧感。ユーザーからは『メガドラタワー』と言われ、愛された。
 
メガドライブの代表作は『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』、『大魔界村』、『シャイニングフォース』、『ベア・ナックルⅡ』、『ゴールデンアックス』、『バーチャレーシング(ノーマル版/32X版)』など挙げればきりがない。他にも名作多数。
メガドライブではソニックの登場と数々の名作が生まれた。その結果全世界で3000万台。アメリカだけで2000万台も売れた。
その数字はスーパーファミコンの全世界で4900万台という数字には及ばなかったが、かなり善戦したと言って良いと思う。

ライバルと闘い続けたセガのゲーム機たち 〜その1〜

多くのユーザーに愛されたセガの歴代ゲーム機達。ライバルの任天堂NEC-HEソニー等と闘い続けた歴史を振り替えってみたい。
 
SG-1000

奇しくも任天堂ファミコンと同日の1983年7月15日に発売となったセガ最初のゲーム機がコレ。価格は15000円。
性能は当時の入門パソコンとして後に支持を得ることになるMSXと似た構成であった。
セガは同日にSG-3000(価格は29800円)という入門パソコンを発売しており、SG-1000はそれにキーボードを排除してコントローラーを付け足してゲームに特化することで価格を抑えたモデル。(別売りのキーボードとBASICを接続すればSG-3000と同等になる。)
CPUに有名8ビットCPUであるZ80Aの互換チップを採用しており、スプライトも使用できる。
性能的にはこの当時の常識で考えると性能と価格のバランスもちょうど良くて不足はなさそうだが、同日発売のファミコンが凄すぎた。しかも価格も200円安かった。
その性能差は素人が見ても明らかで、SG-1000は発売当初からいきなり苦境に立たされる。
コントローラーも従来のレバーと押しにくいボタン配置。ファミコンのような十字キーを配した革命的なコントローラーではなかった。
全世界で100万台を売り上げたが、この中には当時ファミコンが大人気で品薄状態が続き、それではと2番手人気だったSG-1000を親が買ってくるという子供にとっては悲劇でしかない事例もあった。当時は家庭用ゲーム機の認識などその程度のものだったのかもしれない。
しかしマニアックなセガに魅了され、セガのゲームを愛するセガマニアを生み出す事となった。
ファミコンの6000万台の足元にも及ばなかったが、ここから打倒任天堂!打倒ソニー!というセガの反骨精神がセガのゲーム機のDNAとして受け継がれることとなる。
代表作は『フリッキー』や『ピットフォール2』など。

SG-1000Ⅱ』
SG-1000を発売した一年後、セガは早くも動き出す。1984年7月にSG-1000Ⅱを発売したのだ。
このモデルは次世代機ではなくマイナーチェンジモデルなので性能はそのまま。価格もそのまま15000円。
基盤を小さくしたのでコストカットを実現。見た目のスタイリッシュ化が図られた。
他にもコントローラーをレバーからファミコンに近い形状に変更した。更に初めから2個付属している。コントローラーは本体のサイドに収納可能というファミコンを徹底的に意識した改良がなされた。
 
セガ・マークⅢ』

1985年10月20日に発売した次世代機。
下位互換でSG-1000のゲームも楽しめる。
性能ではファミコンに勝っている部分もあるのだが、1985年には『スーパーマリオブラザーズ』が発売された為世間の興味はファミコン一色。マークⅢもアーケードで人気のあったセガの『ファンタジーゾーン』を発売し、雑誌に大きく広告を載せるなど気合を見せ、勢いに乗ろうとした。しかしサンソフトから発売されたファミコン版の『ファンタジーゾーン』の出来が予想以上に良く、結局ファミコン人気の後押しをしてしまう形となった。
元はセガのゲームなのに何とも皮肉な事であろうか。
売上は全世界で780万台。かなり売れたような気もするが、日本やアメリカではあまり売れていない。どちらかというとゲーム後進国であったヨーロッパ、アジアでは韓国、台湾で売れた。
代表作は『ファンタシースター』、『アレックスキッド』など。

セガ・マークⅢから2年後の1987年10月18日に発売された。セガ・マークⅢのマイナーチェンジモデル。
オプションだったFM音源を標準でサポートする。コントローラーの連射スイッチが付いている。
しかし日本では発売して半月後の10月30日にNEC-HEが『PCエンジン』を発売したことからマスターシステムは殆ど話題になることは無かった。
しかしヨーロッパや南米ブラジルではかなり売れたようだ。
全世界で1300万台。ブラジルだけで500万台も売れている。


4台のゲーム機を紹介させてもらった。
これらは全てファミコンを相手に闘いましたが残念ながら全敗しました。しかしセガ独自のマニアックなソフト展開でファンを確実に増やしていたのも事実です。次回は夢の16bitゲーム機メガドライブが登場します。

ファミリーコンピュータ

任天堂が1983年7月15日に発売した。
人気は口コミで徐々に広がり、それまでの常識を覆す高性能をウリに爆発的売上を誇った。
ファミリーコンピュータは多くの人々からファミコンと呼ばれ親しまれた。
当時のファミコンユーザーの親の世代になると今でもテレビゲーム=ファミコンであり、プレステでもファミコンと呼ぶ人がいる程の影響力であった。
さて、この通称ファミコンであるが、実は発売当時は様々なゲーム機が乱立していた時代だった。
この頃のゲーム機は本体とゲームがセットになっているものが多く、グラフィックも扱える色はごく僅かという時代だった。京都の小さな花札屋だった任天堂も『TV GAME15』や、『ブロックくずし』等のゲーム機を発売し、それなりに売上を上げていた。
(エポック社の『カセットビジョン』のようにカセットを差し替えることで様々なゲームに対応した物もあるにはあった。)

そんな家庭用ゲーム機の世界で当時の任天堂社長である山内博が『他社が1年は追い付けない性能のゲーム機を!』という大号令の元、開発をスタートさせたのがファミコンだった。
開発コード名は『ヤングコンピュータシステム』当時アーケードで人気を博していた『ドンキーコング』を遊べるゲーム機として開発。
それはアーケードと家庭用ゲーム機の性能差を無くすという当時では考えられない計画だった。
しかも価格も安くしなければならない。いくら高性能でも高くては誰も買わない。
CPUにはAppleIIに搭載された6502のカスタムチップをリコーに依頼。その安い受注価格から難航を示したリコーであったが、任天堂は大きな賭けに出る。

 『100万個の受注を保証する』というのである。当時のゲーム機は40万台売れたカセットビジョンが最高の売り上げ台数なのだ。
これにはリコーの担当者も『面白そうですね。』と快諾したという。
他にもファミコンの色といえば白とあずき色の2色だが、これにも理由がある。『実はこの色が一番安かったから、ただそれだけ。』というのである。
性能は犠牲にさせず、コストカットできる部分は局限まで努力をしたファミコンは1983年7月15日に14800円で発売される。
同時発売は『ドンキーコング』と『ドンキーコングjr.』と『ポパイ』の3本。
ステージ数が少ないなど完全移植とはならなかったが、3本共に当時の家庭用ゲーム機の常識では考えられない完成度で、人気のゲーム機となった。
他にもサードパーティの影響も大きかった。それまでのゲーム機はエポック社が本体を発売したならソフトもエポック社からしか発売されないのが普通であった。
ところが多くのサードパーティと呼ばれる会社からソフトが出たのである。
ハドソンの『ロードランナー』や、ナムコの『ゼビウス』などの人気にも支えられファミコン人気は絶対のものとなっていった。
特にゼビウスは当時のパソコンを含めてもファミコン版が当時は一番完成度が高い移植であった。ナスカの地上絵は再現されていなかったが、新規ユーザーを更に増やした。
ファミコンは全世界で6000万台以上の売上を誇った。
社長の山内は『他社が1年は追い付けない性能のゲーム機を!』と言ったのだが、結果として5年は追い付かれなかったのだから凄いとしか言いようがない。
山内博「企業においては、確かに冒険精神は必要不可欠のものだが、なにも現在、小は小なりにうまく暮らせているものを、わざわざヤケドしに行くことはないという気持ちも、私にはあります。任天堂の場合、どこへ行っていいかわからなかった。だが、現実に何かしなければ会社がなくなってしまう。そういう危機意識が非常に強かったんです。」