ファミコン以前の任天堂のゲーム機
そんな時、三菱電機がシステック社とテレビゲーム用基板を開発していたが、途中でシステック社が倒産してしまう。そこで三菱電機から話を持ちかけられたのが任天堂であった。
それまで任天堂はアーケードゲームを開発したことはあったが、家庭用ゲーム機を開発したことはなかった。
まだ小さな会社であった任天堂にとって、新規参入事業に失敗しない為に何か起爆剤となるようなインパクトが必要だと考えた。
普通に販売しても精々15000円程度でそれほどインパクトはない。ならばと任天堂は2つのバリエーションを用意したのだった。
遊べるゲームが15個の『カラーテレビゲーム15』(15000円)と、もう1つは遊べるゲームが6個の『カラーテレビゲーム6』(9800円)である。この9800円という価格はインパクトがあった。
カラーテレビゲーム6はコントローラーも本体に直付けになっているなど、出来る限りのコスト削減を行って実現した価格だが、実は15と6は同じ基板が入っていた。本体に付いているゲーム切り替えのスイッチを削除しただけ。
それでも5000円追加で9個も遊べるゲームが増えるのだからカラーテレビゲーム15の方が売れるはず。
この任天堂の戦略は見事に的中し、カラーテレビゲーム15は90万台。カラーテレビゲーム6は50万台を売り上げ、エポック社の『カセットビジョン』が出るまで覇権を握ることになる。
『レーシング112』
見た通り本体にハンドルが付いているレースゲーム専用機。
当時アーケードで人気だったトップビュー型のレースゲームを家庭で遊べるようにしたが、LSIの性能が追い付かず、単純なゲーム内容になってしまった。一応スイッチ操作により112種類の微妙に違うゲームが遊べる。
パドルコントローラーを接続すれば2人でも遊ぶこともできた。
開発は三菱電機が行っていたが、任天堂からも技術を学ぶ目的で何名か参加している。
売上は16万台程度だが、任天堂が家庭用ゲーム機開発のノウハウを学んだ意味のある機種。
アタリ社が1976年にアーケードで出した『ブレイクアウト』というゲームを家庭で遊べるようにした製品。
初めて任天堂独自で開発した家庭用ゲーム機で、カラー表示なので見た目はブレイクアウトに勝っている。
本体のスイッチを操作することでモードの切り替えができる。ボールがブロックを貫通するモードは爽快感があるし、目的のブロックを消せばクリアになるモードなどが用意されている。
売上は40万台。
使用している基板もアーケードと同じものを使用しているため、電源もデスクトップパソコンの電源ユニットみたいな感じ。
コンピュータ相手にオセロを楽しめるのは当時としては画期的で、しかも4つのレベル設定がある。しかし、当時の半導体メモリの容量の限界か、コンピュータはそんなに強くない。
価格は48000円と高い割にはオセロしか遊べない。画面も地味と良いところが全く無かった。
任天堂で一番売れなかったという幻の機種だが、そもそもこの機種ではヒットは望めないと任天堂も思っていた節がある。
基板の在庫整理が目的だったのではないだろうか。
FM-TOWNS マーティー
1993年2月20日に富士通が突如発売したゲーム機。
当時、富士通が販売していたFM-TOWNSというパソコンがあった。世界で初めてCD-ROMを搭載したパソコンで、お値段も40万円する高級機でしたが、ゲームタイトルも比較的多く発売され、一部では人気があったのです。
富士通は家庭用テレビに解像度640×480で画像を映し出す技術を開発し、専用モニターを使用せずにFM-TOWNSのソフトを起動出来るマシンを開発した。それがマーティーでした。
ゲーム専用機としての役割を持っているため、標準でジョイパッドが付いている。
このジョイパッドでマウス代わりにポインター操作を行うのだが、案の定操作しづらい。
別売りのマウスは用意した方が良いと思う。
他にはZOOMボタンが付いており、画面の拡大が出来るようになっていました。これは元々パソコンのソフトなので文字が小さく、テレビに映すと読めない事がある為につけられた機能である。
マーティーはそもそも入門機という位置付けのマシンであるためCPU性能は高くなく、初代FM-TOWNSレベルとなっており、全てのソフトが動くわけではない。
マーティー発売時点で、FM-TOWNSには600を越えるソフトが発売されていたが、その内マーティーで遊べるのは200といった具合である。
それでも3DOから始まる次世代ゲーム機争いが始まる1年前に発売されており、その時点では比較的移植度が高かった『雷電』や、『アフターバーナー2』、『餓狼伝説スペシャル』などが遊べたし、『ターボアウトラン』や、『スプラッターハウス』などの通好みのソフトも遊べるのは魅力的だった。
しかしマーティーはさっぱり売れなかった。その原因は本体価格だろう。さすがに98000円という本体価格は高すぎた。
当時日本で一番売れていたパソコンのPC-98の安いモデルなら10万円あれば買えただろう。
そこで富士通は1年後価格を下げた『マーティー モデル2』を発売する。
本体性能はそのままで色が白からグレーに変更された。定価は66000円と、前モデルに比べて32000円の値下げを実現したが、それでも売れなかった。結局値下げされても高いものは高かったのである。
しかもこの年は次世代ゲーム機が出揃う年であり、誰もマーティーに注目する者は居なかった。
結局FM-TOWNSマーティーは4.5万台の売上台数で終息。
世界で最も売れなかったピピンアットマークの4万台よりもわずかに売れたが、失敗したと言わざるを得ない。
ある意味ピピンアットマークよりもマイナーなマシンだが、値段との折り合いがつけば最高のエロゲーマシンとして活躍したらしい。
他にはカーマーティーという製品が存在しました。
これは自動車に車載するマーティーで、カーナビゲーションシステムとして売り出されたのです。
カーナビでは初めて一方通行道路を考慮してルート検索が出来るのと、データの更新をフロッピーディスクで行えるという結構画期的な製品でした。しかも運転に飽きたら車内でゲームも楽しめるのです。
実際車内でゲームを楽しむ人はそんなに多くなさそうですが、カーマーティー独自の機能としてユニークだと思います。
今となってはスマホのナビアプリより低性能ですが、今カーマーティーで遠出したらどうなるのか気になるところです。誰か検証して頂きたい。
ネオジオ
PC-FX
オデッセイ
後にテレビゲームの父と呼ばれるラルフ・ベアが開発した。
ベアはドイツ生まれのユダヤ人であったが、ナチスによるユダヤ人迫害が激しくなった為アメリカに亡命した。
科学者であるベアはオシロスコープを用いてテニスゲームを作成し楽しんでいたが、ある日テレビゲームというものを思い付く。
そしてベアが1966年に作ったのが『ブラウンボックス』というテレビゲームの試作機であった。
ブラウンボックスはその名の通り茶色い木の箱で出来ていて、コントローラーには操作するためのパドルが2本付いていた。この2本のパドルで上下左右の操作を可能としている。
ベアはこのブラウンボックスを数々の企業に持ち込んで提案を行ったが、5年もの月日をかけて唯一理解を示したのがマグナボックス社であった。
マグナボックス社から発売されたオデッセイはブラウンボックスに比べるとコストカットの為に幾つかの機能を削っている。
まず色の表示。オデッセイでは白のみ扱える。
次に音。オデッセイには音が無い。
そしてゲームカード対応。これはゲームカードを差し替えることで数種類のゲームを起動出来る仕組み。画期的と言えば聞えが良いが、単に起動できるゲームを制限する役割であって、ゲームカードといってもプログラムが記録されているわけではなく内部の配線が変わるだけの仕組み。これは別売りのゲームカードが存在する。
ゲームの方は画面に写し出された白いドットを打ち返すピンポンなど単純なもので、得点表示や勝ち負けの判定など無く、プレイヤーの自己判断に任せるスタイル。
というのもIC等の演算装置を用いておらず、計算など出来るはずもない。
別売りでテレビに張り付けて画面の雰囲気をサポートするオーバーレイシートや、前途した数種類のゲームカード。得点などを表すカードやチップ。画面のドットを撃って遊べる光線銃などがある。光線銃はなんと任天堂製であった。
オデッセイは30万台の売上を記録したが、ヒットしたとは言い難い。
そもそもこの頃はテレビゲームの認識が無く、オデッセイのテレビCMでマグナボックス製のテレビを使用していた為に、それを見た人々からは『マグナボックス製のテレビでないと使用できない』といった間違った認識が広がってしまったからだと言われている。
しかしこのオデッセイの登場はビデオゲームに多大な影響を与えた。
それは搭載されているゲームの1つ、ピンポンである。ビデオゲームとして初めて商業的に成功したと言われるアタリ社の『PONG(ポン)』という有名なゲームがある。
このPONGの成功があるから今のビデオゲームがあると言っても過言ではないだろう。
そしてそれはオデッセイのピンポンにそっくりであった。
そこでマグナボックス社はアタリ社を相手に控訴を起こす。結果としてアタリ社は70万ドルをマグナボックス社に支払った。
オデッセイで一番儲けたのはこの70万ドルだったと言われている。
カセット交換式ゲーム機の遍歴 〜その2〜
1977年コレコ社から発売。
日本には1978年に砂川産業より29800円で輸入販売。
三角形の形をしたユニークな機種で、見た通りそれぞれの面にハンドルコントローラーや光線銃が備わっている。
カセットは4種類しかないが、そのカセットまでも三角形なのがこだわりを感じられる。
本体性能はAtariVCSには敵わないが、その分こちらは体感出来る操作が魅力。
コレコ社のテルスターシリーズはこの機種で最後となり、そのDNAはコルコビジョンへ受け継がれていく。
1979年にマテル社から発売された。
日本には1982年7月にバンダイが49800円で輸入販売した。
AtariVCSを越える性能を持っており、この当時にして何と16bitCPUを搭載している。
表現力が向上しているのは勿論、コントローラにはテンキーと丸形のパッドを備えていた。
ゲームカセットを購入するとテンキーに被せて使用するシートが付属しており、操作ガイドの役割を兼ねていた。
アメリカでは300万台販売しており、『アタリ・ショック』からの脱却を予感させた。
日本ではTVCMにビートたけしを起用したりして頑張ってはいたが、高すぎる値段が影響してあまり売れた印象は無い。
1981年7月30日にエポック社が発売した。
本体にCPUは搭載しておらず、カセットの方にNEC製のLSIを載せている。このLSIで演算、プログラムの格納、画面作りの全ての処理を行っている。カセットによって演算Bit数も異なり、4Bit~48Bitと色々な種類がある。
画面は荒々しいドットで、お世辞にも高性能とは言えないが、三角形のドットが存在するのが特徴。
当時本体にCPUを搭載したゲーム機は数種類出ていたが、日本ではいずれも50000円位する高価ものだった。カセットビジョンの場合本体はコントローラーの役割位しかないので本体価格は13500円と安く出来た。更にカセットにおいても国内生産なので安定した価格で供給。
ゲームタイトルにはエポック社の得意とする『ベースボール』を筆頭にSNKのアーケードゲームだった『与作』を移植した『きこりの与作』が人気。
他にも『ギャラクシアン』、『パックマン』、『ドンキーコング』、『スクランブル』、『ペンゴ』等から影響を受けたオリジナルゲームなどを発売。それまでの日本の家庭用テレビゲーム機と比べてバラエティー豊かなソフトが揃っている。
販売台数は45万台。任天堂のファミリーコンピュータが出るまで日本で覇権を握った。
1982年にエマーソンラジオ社から発売された。
このアルカディアという機種は30種類にも及ぶ互換機が発売されており、日本ではバンダイが1983年3月に発売した『バンダイ・アルカディア』が一番有名。
バンダイはインテレビジョンの販売において、高すぎる値段で失敗した反省の元、アルカディアをインテレビジョンの後継機と位置付け、19800円で販売した。
しかし4ヶ月後に任天堂ファミリーコンピュータが発売されると9800円に値下げを断行する。
ゲームタイトルは基本輸入物だが、日本独自のタイトルとしてバンダイのキャラクター版権を利用した『機動戦士ガンダム』、『Dr.スランプ アラレちゃん』、『ドラえもん』、『超時空要塞マクロス』の4タイトルがある。
1982年8月にコレコ社が発売した。
スペックでは後に発売される『セガSG-1000』や、『MSX』と似た能力を持っていた。
コレコビジョン専用のゲームでは当時として考えると美しい画面でゲームが遊べ、他にもAtariVCSのゲームも動作可能というお得な機種。
コレコビジョンのゲームでは特に『ドンキーコング』が有名で、任天堂の許可を得て開発した本作は高い完成度を誇り、コレコビジョンの売上に貢献した。
他にもコナミの『けっきょく南極大冒険』や、『わんぱくアスレチック』等、後にMSXに移植されるゲームが出ているのが面白い。
売上はアメリカで300万台。
1983年7月19日にエポック社が発売。
4日前の15日に発売された任天堂ファミリーコンピュータ(以下ファミコン)に対抗するための機種。
本体性能では到底勝ち目の無いカセットビジョンではあったが、ファミコンに唯一勝っているところがあった。それは価格の安さ。
その価格を更に安く提供できるように改良を加えたのがカセットビジョンjr.だった。本体価格は驚きの5000円。この価格はファミコンを買ってくれとせがまれる親には有り難かったのではないだろうか。
子供にとってはたまったものではないが、セガSG-1000と並び、これじゃないハードとして君臨した。
打倒ファミコンに燃えるエポック社が1984年7月17日に14800円で発売したカセットビジョンの後継機。
ファミコンの一年後に発売したにも関わらず本体性能はファミコンに劣っていた。コントローラーを見てみても、ファミコンが十字キー採用している時代にスーパーカセットビジョンは前世代から変わらないスタイルを貫いていた。
唯一128個のスプライト機能だけが自慢できる点であったが、その機能を活かすカセットは最後まで現れなかった。
サードパーティから多くのゲームが発売されるファミコンや、アーケードからの移植を得意とするセガとは違い、エポック社だけが頑張ってゲームを発売してもライバルに比べて魅力が低かった。
1985年には『スーパーマリオブラザース』のヒットで更に売上を伸ばす任天堂。一方セガも新ハードの『セガマーク3』を投入するなど、激しくなる家庭用ゲーム業界に追従していくことが出来なくなり、エポック社は1986年末にハード事業を撤退した。
後の1989年に『ファミコン野球盤』というファミコンソフトを発売。
あの打倒ファミコンに燃えていたエポック社がファミコンソフトを出す事になるとは何とも複雑な心境になってしまう。
カセット交換式ゲーム機の遍歴 〜その1〜
『Video Entertainment System(VES)』という名称がつけられていたが、後にアタリ社が発売する『Video Computer System(VCS)』と似ているという理由で何故か先に発売していたこちらがチャンネルFと名称を変更した。
世界初のカセット交換式ゲーム機で、本体にCPU(フェアチャイルドF8)を搭載する画期的なマシン。
フェアチャイルド社は自社でCPUを開発できたのでその長所を活かせたのだろう。
まだゲーム機のコントローラーそのものが確立されていない頃に発売された為、操作方法が独特で、ノブを上下左右に動かしたり、引っ張ったりして遊ぶ。
日本では丸紅住宅機器販売から本体128000円、カセット9800円という驚きの価格で販売された。販売はデパートの店頭が主だったが、電話による通信販売もあったらしい。
流石に高すぎるためあまり売れた印象はない。
カセットを横向きに挿すのが何ともレトロちっくで味がある感じだが、今だと逆に斬新。
販売台数はアメリカで30万台。
こちらも後に『Atari2600』と名称を変更している。アタリ社が出していた家庭用ゲーム機『HOME PONG』の後継機種として開発された。
こちらも本体内部にCPU(モステクノロジー社の6507)を搭載している。
発売当初は『チャンネルF』の影響を受け、あまり売れなかったようだが、VCSのプログラムコードを解放したことで、様々なサードパーティからソフトが供給されることになり売上は一気に拡大し、アメリカでは家庭用ゲーム機のスタンダードとなる。
日本ではエポック社が『カセットTVゲーム』として輸入販売しているが、本体価格57300円。ソフト12500円と高い値段設定のため30万台程度しか売れていない。
しかしアメリカでは2000万台以上売れており、エポック社がアタリ社に発売を依頼した『スペースインベーダー』の移植作はAtari2600の代表作として知られている。
その一方、どんなソフトでも出せば売れるという状況に、つまらないソフトが大量に発売されてしまい、挙げ句の果てにはアタリ社自信も伝説のクソゲー『E.T.』を発売するなど、ソフトの質の低下が問題視された。
その結果Atari2600だけではなく他のゲーム機まで全く売れなくなってしまう『アタリ・ショック』と呼ばれる問題を引き起こした。
日本製では初のカセット交換式ゲーム機。
CPUを使用せず、ゼネラル・インスツルメント社のLSI(GIMINI8600)を使用している。
このGIMINIというLSIはカセット交換式ゲーム機を容易に製作出来るのが特徴で、少し回路に詳しい人なら趣味の範囲でもゲーム機を製作できた。
本体はCPUを搭載していないため安価に製造できる。(本体価格9800円)
その代わりカセット側にゲーム用のLSIを積む必要があった。『カーレース』のカセットはまだ出たばかりのLSIを使用しているため値段が高く、23000円もした。
オリジナルゲームではなく、あくまでもゼネラル・インスツルメント社が作ったLSIをカセットに載せているだけであった。
東芝は玩具店への販売経路を持っていなかった為、家電量販店で販売した。
その影響か、玩具と言うよりは家電を意識した感じになっており、本体も高級感がある仕上がり。金属パーツも多く使われており非常に格好が良い。
本体価格は54800円と高価であったが、カセットの値段はプログラムを記憶させたROMを載せるだけなので全てのタイトルが一律5000円と安定供給できた。ゲームをするときはテンキー型のコントローラーにジョイスティックを被せて使用する。
ゲームだけでなく学習ソフトも発売された。
アドオンシリーズとしては1000、1200、1500、2500、3000と続き、5000でカセット交換式になった。
ゼネラル・インスツルメント社のGMINIを利用している為、タカトクトイズのビデオカセッティー・ロックとほぼ同じような機種と言える。
こちらはコントローラーが分離式でその分操作性が良くなっているかも。
本体とカセット2本をセットで19800円。
この頃のゲーム機は各社様々な機種が発売されており、バリエーションが多い。しかしプレイできるゲームは似たような物しかなかった。いわゆるポンゲームの亜流ばがりだったし、ユーザーもそういう認識だった。
そんな中、玉石混合ながらも様々なゲームがカセットで発売されたAtari2600はテレビゲームのこれからのあり方を示したと言える。
一方、日本ではまだカセット交換式ゲーム機よりも任天堂が1977年に発売した『カラーテレビゲーム15』が覇権を握っていたのだった。
次回はエポック社のカセットビジョンが登場します。