GAME de B-DASH

ゲームが特別うまい訳でもないけれど、ちょっぴり古いゲームから最新のゲームまでゲームと名がつく物が好きな人のブログ。

ファミコン以前の任天堂のゲーム機

1977年7月1日に発売。
当時はエポック社の『テレビテニス』(1975年9月12日に19500円で発売)がまだ小さかった日本のテレビゲーム機市場の覇権を握っていた。
そんな時、三菱電機がシステック社とテレビゲーム用基板を開発していたが、途中でシステック社が倒産してしまう。そこで三菱電機から話を持ちかけられたのが任天堂であった。
それまで任天堂アーケードゲームを開発したことはあったが、家庭用ゲーム機を開発したことはなかった。
まだ小さな会社であった任天堂にとって、新規参入事業に失敗しない為に何か起爆剤となるようなインパクトが必要だと考えた。
普通に販売しても精々15000円程度でそれほどインパクトはない。ならばと任天堂は2つのバリエーションを用意したのだった。
遊べるゲームが15個の『カラーテレビゲーム15』(15000円)と、もう1つは遊べるゲームが6個の『カラーテレビゲーム6』(9800円)である。この9800円という価格はインパクトがあった。

 カラーテレビゲーム6はコントローラーも本体に直付けになっているなど、出来る限りのコスト削減を行って実現した価格だが、実は15と6は同じ基板が入っていた。本体に付いているゲーム切り替えのスイッチを削除しただけ。
それでも5000円追加で9個も遊べるゲームが増えるのだからカラーテレビゲーム15の方が売れるはず。
この任天堂の戦略は見事に的中し、カラーテレビゲーム15は90万台。カラーテレビゲーム6は50万台を売り上げ、エポック社の『カセットビジョン』が出るまで覇権を握ることになる。

『レーシング112』

カラーテレビゲームのヒットで気を良くした任天堂が1978年に18000円で発売したゲーム機だが、こちらはあまり売れなかったため、何度かの値下げで12800円に。
見た通り本体にハンドルが付いているレースゲーム専用機。
当時アーケードで人気だったトップビュー型のレースゲームを家庭で遊べるようにしたが、LSIの性能が追い付かず、単純なゲーム内容になってしまった。一応スイッチ操作により112種類の微妙に違うゲームが遊べる。
パドルコントローラーを接続すれば2人でも遊ぶこともできた。
開発は三菱電機が行っていたが、任天堂からも技術を学ぶ目的で何名か参加している。
売上は16万台程度だが、任天堂が家庭用ゲーム機開発のノウハウを学んだ意味のある機種。
 
1979年に13500円で発売。
アタリ社が1976年にアーケードで出した『ブレイクアウト』というゲームを家庭で遊べるようにした製品。
初めて任天堂独自で開発した家庭用ゲーム機で、カラー表示なので見た目はブレイクアウトに勝っている。
本体のスイッチを操作することでモードの切り替えができる。ボールがブロックを貫通するモードは爽快感があるし、目的のブロックを消せばクリアになるモードなどが用意されている。
売上は40万台。
 
『コンピュータTVゲーム』
1980年に発売したテレビでオセロが遊べるゲーム機。1978年に任天堂はアーケード向けにオセロ対戦ゲームを出していたのだが、それを家庭用に持ってきた。
使用している基板もアーケードと同じものを使用しているため、電源もデスクトップパソコンの電源ユニットみたいな感じ。
コンピュータ相手にオセロを楽しめるのは当時としては画期的で、しかも4つのレベル設定がある。しかし、当時の半導体メモリの容量の限界か、コンピュータはそんなに強くない。
価格は48000円と高い割にはオセロしか遊べない。画面も地味と良いところが全く無かった。
任天堂で一番売れなかったという幻の機種だが、そもそもこの機種ではヒットは望めないと任天堂も思っていた節がある。
基板の在庫整理が目的だったのではないだろうか。
 
□まとめ
初期の任天堂三菱電機との関係が深く、共同開発でノウハウを蓄積している。
カラーテレビゲームの販売戦略は見事で、テレビゲーム業界に新規参入を考えていた会社が多かった時代だが、任天堂の9800円という価格を見て、参入を断念する会社も多かったらしい。